名古屋グランパスのホームスタジアムとして愛されたパロマ瑞穂スタジアムは、
グランパスの初陣から29年に渡り、数々の名場面を生んできた。
改築工事に伴う休業を前に、“聖地瑞穂”と共に歩んだ関係者たちにインタビューを実施。
第6回は選手、監督としてグランパスに携わった小倉隆史さん(現FC.ISE-SHIMA理事長)を取材し、
パロマ瑞穂スタジアムでの思い出を聞いた。
インタビュー・文=INSIDE GRAMPUS編集部
パロマ瑞穂スタジアムが改築されると聞いた時、率直にどう思いましたか?
小倉 正直に言うと、改築するのはいいことだと思いました。かなり前から使われていて、老朽化も進んでいるはずです。陸上などでも使用頻度は高かったと思うので、早く改築したほうがいいと思っていましたよ。寂しいという思いもありますが、スタジアムの改築には賛成です。
改築された新たなスタジアムに期待していると。
小倉 そうですね。スタジアム内の設備だけではなく、お客さんが使用するトイレなどもきれいになって、バリアフリーも徹底されればいいなと思います。より素晴らしいスタジアムになることに期待しています。
途中で改築工事があったとはいえ、完成した1941年から約80年に渡って使われてきました。
小倉 歴史があるスタジアムですよね。サッカーだけでなく、陸上の大会などでも使用されてきて、さまざまな歴史が刻まれていると思います。
“聖地瑞穂”と呼ばれていることについて、ご自身はどのように感じていますか?
小倉 グランパスといったらパロマ瑞穂スタジアムがホームスタジアムでしたから、“聖地瑞穂”と呼ばれていることに異論はありません。隣の球技場を使いながら、パロマ瑞穂スタジアムをホームスタジアムとしてスタートしましたしね。もちろん豊田スタジアムも素晴らしいスタジアムですが、パロマ瑞穂スタジアムは“聖地”だと思います。
閑静な住宅街にあるスタジアムで、家族連れで訪れる観客も多かったと思います。
小倉 パロマ瑞穂スタジアムの横には山崎川が流れていて、春先は桜がきれいに咲きます。絶好の花見スポットになっていますよね。スタジアムに行けば、そういった試合以外の部分でも楽しめたと思います。地元の人にとって、身近にJリーグをやっているスタジアムがあり、すぐに足を運べるのは良かったのかなと。
楢﨑正剛クラブスペシャルフェロー(CSF)は「家から近いので、試合後の移動が楽」だと話していました。
小倉 (笑)。住宅街の中にドンとスタジアムが建っているのは、Jリーグの中でもあまりないと思います。そういった立地のいい場所で、グランパスが試合をするということにも意味があると思います。
初めてパロマ瑞穂スタジアムのピッチに立ったのは?
小倉 覚えている限りでは高校時代です。春先にパロマ瑞穂スタジアムで行われる中京テレビ杯という大会に出場しました。高校2年生の時は桐蔭(学園)にボロボロにされましたが、高校3年生の時は優勝したと記憶しています。パロマ瑞穂スタジアムで試合ができて、すごくうれしかったですよ。パロマ瑞穂スタジアムといったらすごい場所というイメージがありましたし、行ったら行ったで芝生がすごくきれい。天然芝でプレーする機会はあまりなかったですし、ましてやパロマ瑞穂スタジアムですから、テンションが2、3割増して上がりました。
1992年に四日市中央工業高校からグランパスへ加入しました。加入の経緯を教えてください。
小倉 当時はまだ10チームで、そのうちのいろいろなクラブから声を掛けてもらいました。声を掛けてくれたすべてのクラブに対して「海外留学はどれくらいの期間で行かせてもらえますか?」と聞いたところ、ほかのクラブは数カ月単位だった中、話し合いの場に監督として唯一立ち会ってくれたグランパス初代監督の平木隆三さんは「そんなの1年でも2年でも行ってこい」と。それを聞いて、入団を決断しました。
デビュー戦となった1992年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)でプロ初ゴールを挙げました。
小倉 (清水)エスパルス戦で、パロマ瑞穂スタジアムではなく隣の球技場でしたね。ジョルジーニョがゴールライン際からパスを出してくれて、僕は流し込むだけの“ごっつぁんゴール”でした。エスパルス戦はシーズン最初のゲームで、僕は先発出場を告げられたんです。平木監督と当時ヘッドコーチだった与那城ジョージさんから「緊張しているのか?」と聞かれ、「いや、していません」と言ったら、「緊張しろ、バカ」と(笑)。試合前に「普通は緊張するだろう。デビュー戦だぞ」と言われたことをすごく覚えています(笑)。気を抜いていたわけではなかったですけどね。
1993年のオランダ留学を経て、1994年にグランパスへ復帰しました。当時の雰囲気はいかがでしたか?
小倉 すごかったですよ。オランダから帰ってきて、「開幕して盛り上がっているんだな」と感じましたし、女性の黄色い声援が多くて。オランダでは男性しかいないような環境でプレーしていて、その声が急に変わったので余計に(笑)。コンサート会場のような雰囲気だと感じていました。
1994年には日本代表の一員として、パロマ瑞穂スタジアムで行われたアシックスカップに出場しました。
小倉 そうでしたっけ……。
ガーナ代表と2試合戦っています。
小倉 ああ。(パウロ・ロベルト)ファルカン監督の時ですね。アトランタオリンピックに向けたU−23日本代表も同時に動いていて、当時の監督だった西野(朗/現タイ代表監督)さんがオランダまで視察に来て、「お前を選ぶから」と。実際にU−23のメンバーに入りましたが、合宿に行く途中で呼び戻されたんです。「代表に入ったから」って言われて、「もう入っていますよね」と答えたら、「バカ、上(A代表)だよ」って。「ファルカンは僕のことを見たことがないでしょ」と思いましたよ(笑)。「入ったから仕方ない。記者会見だから戻るぞ」と言われたことを覚えています。
グランパスに復帰し、初めてのホームゲームを覚えていますか?
小倉 帰ってきて最初は(横浜)マリノス戦。(公式記録を見ながら)あれは球技場だったんですね。得点は何気に僕のパスから始まっていますね。何シーンか覚えていますよ。
1994年7月27日のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)がパロマ瑞穂スタジアムでのプロ初ゲームです。
小倉 (公式記録を見ながら)ジェフ(ユナイテッド市原/現ジェフユナイテッド千葉)戦で途中出場か。正直、全然覚えていないです。
1994年9月21日のジュビロ磐田戦で、パロマ瑞穂スタジアムでの初ゴールを挙げました。
小倉 (公式記録を見ながら)ビニッチがいる。懐かしいな。1994年だから、まだ(ゴードン)ミルン監督の時ですね。ビニッチからのパスでゴールを決めていますね。この試合はなんとなく覚えています。
パロマ瑞穂スタジアムで最も印象に残っているエピソードは?
小倉 真っ先に浮かぶのはJリーグが始まった当初、グランパスは“お荷物クラブ”と呼ばれていた中、(アーセン)ベンゲル監督が就任した1995年からすごく勝ち出したこと。ホームではかなり強さを発揮していて、連勝ばかりしていたイメージがあります。スタジアムは毎試合のように満員になっていて、すごくいい雰囲気の中でサッカーができ、いいシーズンを過ごすことができたと思っています。
当時の公式記録を見ると、来場者数が2万人を超えている試合が多くありました。
小倉 勝利を重ねていたことはもちろん、試合がおもしろいから、多くのお客さんが来てくれるんだなと感じました。プレーしている僕らも楽しかったですしね。最高の雰囲気を皆さんに作ってもらいながら、勝っていったと思います。2万人を超えるお客さんが入ったのはブームでなく、本当に応援したくなるようなチームだったからなのかなと。
ピッチに対しての印象は?
小倉 管理をしている方々が芝をちょうどいい長さに刈ってくれていたと思います。芝の状態はいつもいいように感じていましたね。
「パロマ瑞穂スタジアムでは相性がいい」と感じることはありましたか?
小倉 どうですかね、僕はそこまで活躍していないので(笑)。個人的によく覚えているのは、2ゴール2アシストで全得点に絡んだ1995年のベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)戦。ハットトリックしないところが自分っぽいなと思います(笑)。ゴールもしっかり覚えていて、特に1点目は左の(小川)誠一さんからクロスボールを受け、それをダイレクトで打って決めた僕の中でも印象深いゴールの一つ。ドヤ顔できる内容ですね(笑)。
ベストゲームを挙げるならこの試合ですか?
小倉 これかもしれないですね。
当時の公式記録を見ていかがですか?
小倉 相手もすごいですよね。高田哲也さん、野口(幸司)さん、ヒデ(中田英寿)がいて、ナラちゃん(名良橋晃)がまだ平塚(現湘南)時代。グランパスにはデュリックスとパシがいて、すごく懐かしいですね。
ロッカールームでの思い出はありますか?
小倉 ロッカールームではよく怒られて、叱咤を受けていました。(アーセン)ベンゲル監督にはハーフタイムに「お前は虎になるんだよ!」、「猫じゃないんだ、虎だ!」なんてことも言われましたね。ベンゲル監督はすごく情熱的な方で、カルチャーショックを受けたくらいです。「監督次第でこうも変わるんだ」と。僕が監督をしたいと思ったきっかけは、ベンゲル監督との出会いがあったからです。自分が選手としてプレーしていた時、ベンゲル監督のサッカーは「本当におもしろい」と感じていましたからね。ベンゲル監督にはいろいろなことを学ばせてもらいました。
報道陣との思い出は?
小倉 試合に負けた時、かなり落ち込んでしまうタイプなので、取材する側は大変だったと思います。特にハプニングが起こったことはないですよ。ただ、バスまでの長い通路を端から端まで歩かなければいけないのは大変でした。取材陣をなんとかすり抜けようとする選手もいて、僕も誰にも会わない通路からバスに向かっていたことがあったかもしれません(笑)。
一番思い出深い試合は4−0で勝利した1995年の平塚戦でしょうか?
小倉 試合ではそうですね。自分が全体をコントロールできているようなイメージがありましたから。
記憶に残っているゴールは?
小倉 あの試合(平塚戦)でのボレーシュートはすごく記憶に残っています。あとは、交代させられる直前に決めた(1995年)セレッソ(大阪)戦のシュートもパッと思い出しますね。パロマ瑞穂スタジアムで何点くらい取っているのか知りたいな。
2000年からは市原(現千葉)、東京ヴェルディ、コンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)を渡り歩き、アウェイチームとしてパロマ瑞穂スタジアムでプレーしました。
小倉 アウェイチームとして来たことで初めてわかったのは、アウェイチーム側のロッカーがホームチーム側よりも狭いこと。グランパス在籍時に他チームの選手から言われていましたが、実際に行ってみて「本当に狭いな」と感じました。
“古巣”グランパスと対戦した時の心境は?
小倉 グランパスでは出場機会が少なくなっていた中、追い出されたわけではなく、お互いが話し合い理解した上での退団でした。変な感情はなかったですけど、しっかりと活躍して、いいプレーをしないといけないと思っていました。
札幌でプレーした2002年はグランパスに3−0で勝利しています。
小倉 FWなので当たり前ですけど、全得点に絡みました。よく覚えていますよ。
2006年の現役引退後に解説者としてパロマ瑞穂スタジアムに来たことは?
小倉 イベントやサッカー教室などのゲストで行くことはありました。解説で来たこともあったはずです。
スタンドから眺めるパロマ瑞穂スタジアムの雰囲気は?
小倉 現役の時でもケガをしていた時はスタンドから試合を観ていました。解説として来るようになりましたが、昔のように満員になることは少なく、「寂しいな」と感じることが多かったです。
2016年にグランパスのGM兼監督に就任し、指揮官としてパロマ瑞穂スタジアムで闘いました。選手時代とは違った空気感や緊張感があったのでは?
小倉 それはもちろん。リーダーである監督としてやらなければいけませんでしたから。チームのトップとして闘っていて、選手と違うプレッシャーを感じながらやっていました。結果がなかなか出ず、ロッカールームに戻る際には直接野次を言われましたからね。ファン・サポーターの方たちは非日常を味わいながら、僕らに託してくれていた側面もあると思います。結果が出ずに野次が出るのは仕方ないことですから、しっかりと受け止めていました。そういった機会を自ら増やしてしまいましたね。
1stステージ第4節のベガルタ仙台戦でパロマ瑞穂スタジアムでの初勝利を挙げました。
小倉 アウェイでの開幕戦でジュビロ(磐田)に勝って、それ以来の勝利だったと思います。なかなか安定せず、苦労して勝ったジュビロ戦はすごく覚えています。仙台戦もあまりバランスが良くない中、「よく勝てたな」という試合だったと記憶しています。
仙台戦は1−0で迎えた82分に追いつかれ、87分に矢野貴章選手が決勝点をマークしました。
小倉 はい、そうですね。貴章のことはよく覚えています。
1stステージ第8節のアルビレックス新潟戦も同じくパロマ瑞穂スタジアムで勝利しました。覚えていますか?
小倉 勝利数が少ないのでね。新潟戦と豊田スタジアムでの横浜FM戦ですよね。(勝利はその)4つで終わりだと思います。
監督として一番思い出に残っていることは?
小倉 期間が短かったので難しいですが、パロマ瑞穂スタジアムの長い歴史の中で一つの勝利を刻めたのは良かったです。不思議な感じがありますよ。選手としてではなく、監督としてロッカールームを使ったり、違う時間の過ごし方をしたり。わかってはいましたが、不思議な感じだったのは覚えています。
選手と監督の両方でグランパスに携わったのはドラガン ストイコビッチさんと小倉さんの2人だけです。
小倉 そうですね。グランパスでやらせてもらえたのは本当にありがたかったです。結果が出ず、自分自身の力が足りませんでしたけど……。でも、すごく大きな経験をさせてもらったと思っています。
小倉さんにとってパロマ瑞穂スタジアムとは?
小倉 プロサッカー選手になるまでは、トップの人たちが使う場所で、僕にとって憧れの場所でした。グランパスに入り、そこがホームグラウンドになりました。自分が成長できたことで、遠い存在だった場所、目指すべき場所まで行けたのかなと。自分の到達地というわけではないですけど、一つの特別な場所だと思っています。
パロマ瑞穂スタジアムへの感謝の思いを聞かせてください。
小倉 サッカーを通じていろいろな経験をさせてもらいました。感動したり、エキサイトしたり、うれしかったり、時には悔しかったり。ケガから復帰して、多くの方に拍手で迎えてもらったのもパロマ瑞穂スタジアムでの湘南戦だったと記憶しています。いろいろなことを経験させてもらった場所なので、すごく感謝しています。
新たなパロマ瑞穂スタジアムは2026年に完成予定です。どのようなスタジアムになってほしいですか?
小倉 これまで刻まれた歴史は変わりません。歴史やその重みを残していくためにも、ファン・サポーター目線としていいスタジアムになってほしいです。また新たな歴史を刻んでいってもらいたいと思っています。
グランパスファミリーにメッセージをお願いします。
小倉 グランパスは優勝を狙わなければいけないクラブです。ストイコビッチ監督時代の2010年に一度優勝しましたが、本当の意味での強さはまだまだこれからなのかなと。強いクラブになっていくために、本当の意味で下支えをするのはファン・サポーターの皆さんだと思います。いい時も悪い時もありますが、叱咤激励しながら、皆さんがいいクラブ作りを支えてほしいです。グランパスは高い可能性を持っているクラブ。本当の意味でのトップを取れるように、いいクラブにしていってもらいたいなと思います。