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THEDAYS 青木亮太 Chapter04

34月

選手が歩んできた道のりをを辿る『月刊グラン』の人気連載企画「THE DAYS」をINSIDE GRAMPUSで再掲。

今回は記念すべき連載第一回、青木亮太選手の連載をお届けします。


THEDAYS 青木亮太  Chapter04(2017年5月号)

 2011年春、青木亮太はサッカーの名門・流通経済大付属柏高校に進学した。ずば抜けたテクニックで2年時から頭角を現した青木はエースに成長。最終学年の3年時、チームは快進撃を続ける―。(敬称略)


文・長坂英生


あこがれ


 2010年秋、千葉県柏市の流通経済大付属柏高校サッカー部の専用グラウンドでヘッドコーチの榎本雅大は練習を指導しながら、セレクションを受けにくる中学生を待っていた。

 東京ヴェルディジュニアユースに所属し、代表に選ばれたこともある有望選手と聞いていた。全体のセレクションはすでに終わっていたが、高い能力を持つ選手だという関係者の話から、特別に一人だけセレクションを受けさせることにしたのだった。

約束の時間となり、ふと練習場の入口に目をやると小学生のような華奢な少年がぽつんと立っていた。

 「こいつなの?」

 代表クラスの選手ならば、独特のオーラがあるだろうと想像していた榎本は、「まさか」と思いながらも声を掛けるとセレクションに来た中学生だった。

 少年は、青木亮太と名乗った。

 榎本は3年生の練習の中に青木を入れた。ハーフコートでのミニゲーム。榎本が想像した通り、青木は3年生のフィジカル、スピードについていけない。ただ、技術の高さに光るものがあった。本田裕一郎監督と相談し、将来性を見込んで青木に合格を伝えた。

 青木は中学生になったときから、高校でサッカーをしたいと考えていた。

 東京ヴェルディジュニアで才能を開花させた青木はジュニアユースに昇格したが、チームは思うように勝てなくなっていた。

 サッカーをこのまま続けていくことへの葛藤もあり、中学2年からの一時期、ヴェルディから離れた。自宅近くで一人練習する日々を送り、自分を見つめ直した。結局3年時にヴェルディに復帰したものの、ユースに進まず「高校サッカー」での活躍を思い描くようになっていた。

 「このままではプロになれないと思いました。Jクラブではない新しい場所で自分を鍛えたかった。選手権などで全国的に注目される高校サッカーの華やかさにも憧れました」と青木は振り返る。

 憧れたのは華やかさだけではない。「高校サッカー部は、試合に出る選手だけではなく、部員同士で切磋琢磨しながら、サッカー部全体で試合に挑むというイメージがあって、そういうところでやってみたいと思うようになりました」

 関東地区の優秀選手を集めたトレセンで知り合った横浜F・マリノスジュニアユースの小泉慶(現・鹿島アントラーズ)が「俺は、高校でサッカーをやるよ」と言ったことにも刺激を受けた。

 小泉とは流経大柏高でチームメートとなるのだが、青木は初めから流経大柏高に決めていたわけではない。

 最初にセレクションを受けたのは山梨県の日本航空高校だった。そこで合格通知を受けたが、父親の則和は「もう少しいろいろ受けてみて考えよう」とアドバイスした。

 則和も青木が高校でサッカーをすることには賛成だった。長男の佑介も東京ヴェルディジュニアユースから静岡の名門・清水商業高校(現・清水桜が丘高校)に進んでいる。青木も強豪校に進み、高校選手権で兄弟が対決するのが夢だった。「選手たちに、将来はプロを目指せという流経大柏高サッカー部のスタンスも気に入りました」と則和は話す。

 流経大柏高サッカー部は1986年の学校創立と同時に創部した。2001年に本田が監督に就任後、専用グラウンドや選手寮をつくり本格的な強化を進めた。

 05年に高校選手権に初出場すると、07年に高円宮杯、08年にインターハイと選手権を制し、全国的な強豪校として名をはせた。

 本田は優秀な選手を育てる名伯楽としても知られ、千葉県の市原緑高校、習志野高校、流経大柏高で多数のJリーガーを輩出した。

 コーチの榎本は習志野高時代の本田の教え子で、国士舘大学を経て流経大柏高の体育教師となり、同時にサッカー部コーチに就任した。

 榎本によれば、本田のサッカーのコンセプトは、習志野高時代はテクニック重視だったが、流経大柏高では勝負にこだわるサッカーへと変化した。

 パワーとスピードで勝利を目指す近年の高校サッカーらしい流経大柏高のスタイルは「技術が持ち味の青木には向かないのではないか?」と心配する声が入学を前にした青木周辺にあった。一方で、東京ヴェルディジュニア時代に青木を指導した永田雅人は「将来を見据えて、自分に欠けているものを求めた青木らしい選択」と評価した。

 「勝負へのこだわり」と「テクニック」―。この2つが青木の高校時代のキーワードとなっていく。


ライバルたち


 2011年春、流経大柏高に進学し、サッカー部に入部した青木は1年生だけのチームに入った。当時もサッカー部員はおよそ200人いて、1年生だけでも53人を数えた。

 1年生チームを担当したのは榎本だった。このチームには青木同様にパワーやスピードに欠けるが高い技術を持つ選手が集まっていた。そこで榎本は本田監督と相談して、あえてテクニカルなチームづくりを目指すことにした。

 「青木は、技術はすごく高い子だった。いわゆるドリブラーでボールをとにかく持ちたがった」と榎本は振り返る。

 横浜生まれの榎本は高校進学前にヴェルディ川崎ジュニアユース(現東京ヴェルディジュニアユース)に所属した。自宅も青木の実家と近いことから、ヴェルディ育ちの青木は榎本にとって気になる存在だった。青木の1年時には学校のクラスも担任した。

 「サッカーでは負けず嫌いでしたね。ただ、1年生のころは『幼い負けず嫌い』。ボールを取られるとムキになって取った相手を後ろから蹴るとかね」と榎本は苦笑する。

 青木は「1年生のときは技術系の練習が多かったですね。うまい選手もたくさんいましたが、技術では負けたくなかった。チームで一番うまくなりたかったです」と振り返る。それは、他の同級生も同じだった。「日々上手くなっていく選手もいて、同じ中学に通っていたというチームメートが『あいつ、中学の時はあんなにうまくなかったんだけどなあ』って驚いていましたね」

 多数の選手が切磋琢磨する環境が、青木たちを育んでいった。サッカー部員は3分の2が学校近くの寮で生活を送る。青木も寮に入った。当初は寮生活になれず貧血を起こして倒れることもあったが、次第に集団生活に慣れてサッカーに打ち込めるようになった。

 流通経済大柏高サッカー部の部員たちには「日本一になりたい」「プロになりたい」という明確な目標があった。思春期の少年にありがちな将来への不安からくる暗さはなく、部員たちの表情は輝いていた。本田監督の存在も心強かった。青木は「監督はすごい存在感があって、ベンチに座っているのを見ると、よし!結果を出してやろうという気になりました」と話す。

 青木が1年生の10月、山口県で国体が開かれた。青木は、榎本が率いるサッカー少年男子の部(U―16)千葉県代表チームのメンバーに選ばれ、主力として出場した。

 準々決勝で東京ヴェルディ時代のチームメート高木大輔(現ヴェルディ)らを擁する東京代表と激突した。「負けたくない」―。高いモチベーションで臨んだ青木の一撃が決勝点となり、1―0で勝ち上がった。決勝は静岡県代表と対戦し、0―0で両県優勝した。

 この月、青木は主力選手で構成する流経大柏高Aチームに昇格した。




エースへの階段


 青木ら1年生は、順調に成長していった。2年になると青木のほか、前出の小泉やジャーメイン良(現ベガルタ仙台)らがごっそりとAチームに入った。

 1年時、青木は本田監督の方針でGKとセンターバック以外の様々なポジションを任されたが、2年生になると右サイドハーフに固定されていった。

 「突破力が持ち味なので、それを引き出すのはサイドハーフだと。このころになると、同じ負けず嫌いでも子どもっぽいところは影をひそめて、メンタルも成長しましたね。ただ、ひょうひょうとしたところがあって、すでにエース級なのに、チームを俺が引っ張るというような感じではなかったですね」と榎本はいう。

 そんな青木が最終学年になると、否応なくエースの自覚を迫られていった。

 2013年、3年生になった青木は高校サッカー生活の集大成の季節を迎えた。

 この年、青木もチームも絶好調でシーズンに臨んだ。

 高い個人技をベースにしたパスサッカーを磨きぬいた流経大柏高は、シーズン開幕から公式戦で快進撃を続けた。相手チームがボールを奪うことができず、スコアも大差のゲームになった。

 「1年生のときから練習試合などで、自分たちのパスが何本続くか数えながらプレーすることもありました。パスでボールを保持し続けることで相手の攻撃を止めることができる。そこをチームで追求してきた」と青木は振り返る。

 特にチームが燃えたのが高円宮杯プレミアリーグ東地区でJクラブの下部組織と対戦する時だった。多くの高校チームがそうであるように、彼らもJクラブへのライバル心は強かった。「チーム全員がムキになって、圧倒してやろうと気迫で臨みました」。中でも青木が、もっとも燃えて戦ったのは、言うまでもない。

 テクニシャンをそろえたチームにあって最高の技術を持つ青木を周囲はエースとみなした。ただ、監督の本田や榎本にはまだまだ青木に不満があった。

 「技術があるのでボールを持ちたがる子なんですが、シュートへの意識が足りなかった。本田先生は『サッカーは点を取ってなんぼ。そんなにうまくて、なぜシュートを打たないんだ!』とよく発破をかけておられました」

 そう話す榎本も、青木に「プロに行きたいなら勝負を決められる選手にならなくてはだめだ」と事あるごとに「エース教育」を施した。青木自身も、それに応えようと全体練習の後で、自主トレを繰り返した。「上手くなりたい。自分が試合を決めたい」の一心で打ち込んだ。

 しかし、流経大柏高の快進撃に陰りが見えはじめた。分岐点は夏のインターハイ決勝だった。

 同じ千葉県のライバル校・市立船橋高校と対戦、エース青木が徹底マークにあって敗れた。その後、プレミアリーグでも、自慢のパスワークが封じられるようになり、チームは失速する。

 「おもしろいようにつながったパスがつながらなくなった。それまではチーム全員が自信満々でしたが、インターハイ決勝のころからパスカットされた時のリスクを考えるようになり、緊張感からパスミスしてしまうようになった」と青木は話す。

 ショックだったのは11月の高校選手権千葉県予選決勝だった。ここでも、宿敵・市船に敗れ、選手権出場の道が断たれた。

 インターハイ、選手権、高円宮杯―。3冠を狙った流経大柏高サッカー部に沈滞ムードが漂った。

 そんなある日、青木を巡って、ある「事件」が起きる―。           

(次号に続く)


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