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THEDAYS 青木亮太 Chapter01

313月

選手が歩んできた道のりをを辿る『月刊グラン』の人気連載企画「THE DAYS」をINSIDE GRAMPUSで再掲。

今回は記念すべき連載第一回、青木亮太選手の連載をお届けします。


THEDAYS 青木亮太  Chapter01(2017年4月号)


サポーターが待望するドリブラーが復活のシーズンを迎えた。MF青木亮太、21歳。千葉県・流通経済大学柏高校で活躍。「超高校級」の逸材として2014年にグランパスに加入して4年目。大けがを乗り越えた若者は、新生グランパスのレギュラー獲りに燃える。今号からスタートする新連載「THE DAYS」。第1弾は、青木の生い立ちから現在までの軌跡を5回にわたりお届けする―。(敬称略)

文・長坂英生


誓い


 2月26日、パロマ瑞穂スタジアム。ファジアーノ岡山との開幕戦。1点リードの後半65分、青木亮太は勢いよくピッチに飛び出した。まず右のウイングバックでボールを追い、途中から3トップの左サイドにポジションチェンジするとフェイントを細かく刻む独特のドリブルで見せ場をつくった。

「チームの流れをつくり、ゴールを決めることができなかった。全然満足できない。ただ開幕戦に出場できたことは大きな一歩。次からは得点にからみたい」

 試合後、青木は悔しさをにじませながらも前を向いた。

「プロに入ってから一番の手ごたえを感じています」-。

 開幕前。あどけない少年のような笑顔を見せながら青木は話した。

 目標は「シーズン通してゲームに出ること」。それは、約束されたものではないが手ごたえはある。自他ともに認める「負けず嫌い」だが、強がりでもない。根拠はある。


 プロ2年目の2015年3月1日、青木はグランパスU18との練習試合で大けがを負った。左ひざ前十字靭帯と外側半月板断裂。リハビリ、チーム合流まで1年以上を費やした。

 昨シーズン終盤に公式戦に出場し、復活への足掛かりをつかんだが、チームは激動した。クラブ史上初のJ2降格、新監督の就任、大量の選手入れ替え―。ただ、青木にとってはけがを癒し、牙を研ぐ時間が必要だった。

「2016年シーズンが終了してからも、筋肉の回復とコンディション維持のためにとにかく体を動かさなければいけないと思いました」

 長期リハビリで筋肉が衰えたため、体を休めすぎると以前に増してコンディション回復に時間がかかった。そこで、青木は新シーズンのキャンプまで自主トレを課したのだった。

 2016年シーズン終了後、トヨタスポーツセンターのクラブ練習場が開場している間はチームメートの杉森考起らとトレーニングした。同練習場が閉場すると、実家の東京都町田市に帰り、そこから母校・流通経済大学柏高校の練習に参加。さらにその後、友人と桐蔭横浜大学グラウンドで体を動かした。

 大みそかと正月元旦は休んだ。といっても元旦は重要な「仕事」があった。

 自宅近くの神社への初もうでだ。あの大けがの後、この神社で健康回復のお札をいただいた。初もうではお礼参りを兼ねたものだった。

 お礼を返し、青木は祈願した。

「今年1年を通じてゲームに絡めますように。そして、けがをしないように」と。

 1月2日、桐蔭横浜大学での練習を再開。6日からは開場したトヨタスポーツセンターでトレーニングを続けた。トレーニングを続ける中で、青木は、日に日にひざの調子が良くなっていくのを感じた。


出会い


 1月16日―。風間八宏新監督のもと、新生グランパスが始動した。それは青木をワクワクさせるものになった。

「風間監督については、フロンターレ時代から面白いサッカーをする監督だなと思っていました。ああいうサッカーがしたいと思っていました。練習が始まって、実際に指導を受けると技術面での厳しい指摘もあり、自分がうまくなっていくという期待を感じました」

 お世辞や外交辞令ではない。この連載を通じて紹介していくが、青木が幼いころから育んできたサッカー感が風間監督の表現しようとするスタイルと一致するからだ。

 若いアスリートにとって「出会い」は重要だ。風間監督の指導は、青木にとって一つ一つが納得いくもので、自分の肉となり、骨になるという手ごたえがあった。

「例えば、無駄な動きをなくして、頭を使い素早くプレーすることを指導していただいています。動きに無駄があったり、ワントラップで前を向けるのにツータッチをしたりすればそれだけプレーが遅れるわけですからね。これを自分を含めたチーム全体でできるようになれば、おもしろいサッカーができると思う」

 少し傷ついた若葉が的確な水やりと新たな肥料によってふたたび成長を始めた。

 タイと沖縄で行われたキャンプでは、たびたび練習試合で起用され、青木に対する監督の期待がうかがわれた。ポジションは右のサイドバックやウイングバックだ。

「攻撃の持ち味を出してほしいと言われています。サイドバックは中学生の時にやっていました。久々ですが、楽しいですね。ドリブルも自由に出していけと言われて、うまくこなせた実感がある」

 強がりではない、「手ごたえ」の根拠。それは、純粋にサッカーを楽しみ、「うまくなりたい」と願った子どものころの気持ちを今再び感じているからだ。

 青木亮太は、どんなサッカー人生を歩んできたのだろうか。


スポーツ一家



 青木亮太は1996年3月6日、父則和、母美樹の次男として生まれた。3人きょうだいで、1学年上に兄の佑介、2学年下に妹の芽生がいる。

 青木が生まれた当時、父の則和は仙台市に勤務していたが、美樹は出産のために東京都町田市の実家に帰り、青木はそこで生まれた。

 その後、美樹は青木を連れて仙台に戻ったが、青木が1歳の時に則和が東京に転勤となり、家族は八王子市でしばらく暮らすことになる。

 生まれ育った環境、とりわけ家族は子どもの人生に大きな影響を与えるものだが、青木家はスポーツ一家だった。

 父の則和はスポーツが大好きな、明るい人物である。

「小学生の時は野球、それからマラソンをやっていました。中学に入るとサッカー部に入りましたが、途中から硬式テニス部に転部。これは高校卒業までやりましたね。大学に入って水泳部でした」

 おおらかな母、美樹は子どものころは短距離を得意としていた。そして則和の父は高校時代に卓球の国体選手として活躍し、現在も楽しんでいる。また則和の妹はスキーの指導者免許を持つ。

 則和はスポーツの魅力をこう話す。

「スポーツを経験すれば、社会に出た時に大変役立つと思います。社会人の世界とスポーツには共通点が多いからです。結果が求められ、結果を出すためには、どうすればいいか考える力が必要。そして勝つことがすべてではなく、負けたから得られることもある」

 社会人になって、そう実感するようになった則和は、「もっと、まじめにスポーツに取り組んでおけばよかった」と後悔し、「自分の子どもたちにはスポーツを突き詰めてほしい」と願うようになった。

 そして、子どもたちにはスポーツに関する情報を与え、やりたいことが見つかったら、できればそれで身を立ててもらいたいと考えるようになった。

「スポーツに励めば社会への対応力がつく」という考えの則和は、子どもたちに「勉強をしろ」と口やかましく言うことはなかった。


兄の背中



 佑介、亮太、芽生の青木家3きょうだいは、サッカーに打ち込むことになる。その口火を切ったのは佑介だった。

 佑介が小学校1年のときである。当時、青木家は八王子市に暮らしていた。佑介が八王子市立上柚木小学校に入学すると、美樹は「佑介に、なにかスポーツをさせよう」と考えた。そして地元スポーツ団の野球とサッカーにそれぞれ体験入団をさせた。美樹が「どちらがやりたい?」と聞くと、佑介は「野球はじっとしていることが多いから、サッカーの方がいいな」と答えた。

 大げさに言えば、この佑介の選択がなければ「Jリーガー青木亮太」の誕生はなかったかもしれない。

 それはともかく、佑介は隣接する愛宕小学校のグラウンドなので練習をしている「八王子愛宕FC」に加入することになった。

 美樹は、年長だった青木を連れてしばしば練習を見学した。

「佑介は小さいころから元気な子でしたが、亮太は5歳くらいまで、いるのかいないのかわからないぐらいおとなしい子でした」と美樹は振り返る。

 ただ、歩き始めると玩具のゴムボールを蹴っていたことは今も覚えている。

 おとなしいが、ボールを蹴ることが好きな次男坊は、兄の練習が終わるのを待つ間、練習場の片隅でひとり練習ボールを蹴って遊んでいた。

 佑介が加入して数カ月たったころだった。クラブの指導者が「亮太君、上手だね。一緒にやってみない?」と声を掛けた。美樹が青木に「どう?」と聞くと、「うん、やりたい」と目を輝かせた。

 こうして、青木のサッカー人生がスタートした。青木自身、兄たちに交じって、サッカーボールを追いかけていたこのころのことをおぼろげながら覚えている。

 それが、サッカーについての青木の最初の記憶だ。

 2003年3月、青木家は現在住む東京都町田市に移り住んだ。当時、佑介が小学2年生、青木が小学1年生だった。

 東京都の南端にある町田市は神奈川県と隣接し、古くから交通の要衝、商業地として栄えた。サッカーが盛んで、J2町田ゼルビアをはじめ、多くのサッカークラブが活動し、多数のJリーガーを輩出した街としても知られる。

 青木が本格的にサッカーに打ち込んだ最初の地である。

 父の則和は引っ越しで八王子愛宕FCを退団した佑介と亮太の次の所属先を探すことになった。サッカーどころ町田。自宅近くにもサッカークラブはたくさんあったが、「学校に通いながらサッカーができるクラブ」という条件を考えて、2人が転入した鶴川第一小学校グラウンドを練習場とする鶴川FCに決めた。

 実は八王子時代、則和は仕事もあって子どもたちの練習を見に行くことはなかった。しかし、鶴川FCに入ると、土曜日・日曜日の練習日には必ず見学するようになった。



「きっかけは佑介と亮太が鶴川FCに加入する前の体験練習を見たこと。2人ともうまくて興味を持ちました」

 2人が加入してから数カ月後のある日、見学する則和に鶴川FCの指導者が話しかけた。「お父さん、熱心ですね。コーチをする気はありませんか?」

 鶴川FCでは、選手の父親の一部が指導を手伝っていた。いわゆる「父親コーチ」にならないかという誘いだった。 

 則和は、即座に断った。スポーツは好きだが、このクラブの指導方針と自分の指導が合うかどうかわからなかったからだ。しかし、その後も、熱心に誘われた則和は、1年後にコーチを引き受けることにした。佑介が小学校4年生、亮太は3年生になっていた。

 則和のコーチ就任を機に、青木亮太にとって、今も足を運ぶ「聖地」が誕生する。

 その名を「田中前公園」という―。

(次号に続く)


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