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THEDAYS 青木亮太 Chapter02

14月

選手が歩んできた道のりをを辿る『月刊グラン』の人気連載企画「THE DAYS」をINSIDE GRAMPUSで再掲。

今回は記念すべき連載第一回、青木亮太選手の連載をお届けします。


THEDAYS 青木亮太  Chapter02(2017年5月号)

 スポーツが好きな両親のもとで育ち、兄の練習についていくことでサッカーと出会った。そして、クラブへの入部・青木亮太のサッカー人生は、着実に歩み始めた。思い出の場所、数々の出会いが、その実り豊かな日々をしっかりと支えていく。


文・長坂英生


田中前公園


 2003年春、青木亮太と兄の佑介は東京都町田市のサッカークラブ鶴川FCに加入した。以前は、子どもたちのサッカーに無関心だった父の則和は2人の練習を見学するうちに「こいつらうまいな」と興味を持つようになる。

 スポーツ好きの則和は子どもたちにアドバイスをしようと、Jリーグや海外サッカーの映像を繰り返し観て、サッカー雑誌や本を読み漁るようになった。則和が注目したのは足元の技術だった。それを子どもたちに身につけさせたい。そのためには、何を教えればいいのか?

 映像の中で国内外のトッププレーヤーたちが、敵を翻ろうし決定的なパスやゴールを決めていく。則和は自分なりのサッカー観を導き出す。

 「相手をよく見て、タイミングを外すことで、相手の裏を取ることができる。そのために必要なのはアジリティ」―。

 1年後、則和は鶴川FCのコーチに就任した。青木は3年生、佑介は4年生になっていた。

 クラブ側の再三の要請に対して、「自分の指導方針が合うかどうかわからない」と断り続けた則和だったが、就任要請を受けると腹をくくった。

 クラブの練習は青木兄弟も通う鶴川第一小学校のグラウンドで行われた。則和と同じ立場の所属選手の父親のほか、近くにある国士舘大学の学生がコーチを務めていた。則和は当時、39歳。

 「直接担当したのは佑介の4年生チームでした。練習メニューは学生らと話し合って決めましたが、私はもう、若いお父さんたちや学生のように体は動きませんから、やったことは技術面よりも主に『しつけ』。練習を一生懸命やり、休む時はしっかり休む―。そういうメリハリというか切り替えを子どもたちに伝えました」

 一方で、その数カ月前から青木兄弟は、クラブの練習がない日に独自のトレーニングを始めていた。場所は自宅近くにある「田中前公園」である。北に鶴見川が流れる。付近の住宅街の子どもたちが遊び場とする三角形の小さな公園だ。

 練習メニューは則和が考案したものだった。

 16個のコーンを等間隔でダイヤモンド型に並べる。そのコーンの間を縫うようにしてトップスピードのドリブルで抜けていく。往復20秒を目標に20本繰り返した。

 また、コーンを四隅に置いて、そのエリア内で兄弟による1対1の練習をした。さらにリフティング連続1000回を目標に汗を流した。

 「サッカーに関して父は厳しかったですね」

 青木はそう振り返る。「今でも父の言葉としてよく覚えているのは『サッカーはゴールを決めて勝つスポーツだ』ということ。そのためには、こういう練習が必要だと教えてもらいました。鶴川FCで同じ小学校の友だちとボールを蹴るのは楽しかったけど、人と同じことをやっていてもうまくならないと思っていましたから、田中前公園の練習は嫌じゃなかったです」

 のちに彼の武器となるドリブルに目覚めたのもこのころだった。

 「テレビでワールドカップなどを見て、やっぱりドリブルはおもしろいと思うようになりました」

 世界のトッププレーヤーたちのドリブルをイメージしながら、青木はコーンを相手にドリブル練習を繰り返した。


きょうだい


 1歳年上の兄佑介は、青木にとって高くそびえるライバルだった。

 「兄はうまかったですね。テクニックがあって、かなわなかった。でも、いつか抜かしてやろうと思っていました」と青木は話す。




 田中前公園の練習。最後は兄弟で1対1の練習で佑介が勝ち、けんかとなって青木が悔しくて泣き出す。それを「合図」に帰宅するのがいつものパターンだった。

 佑介もサッカーに夢中だった。

 「僕は鶴川FCでの決められた練習だけでは満足できなくて、田中前公園での練習は楽しみでした。そこでは本当の意味でサッカーを楽しむことができました。亮太もそうだったと思うけど、当時は、僕のほうが上手かったので、1対1の練習ではどうしても僕が勝ってしまう。亮太はすごく負けず嫌いだから、いつもケンカになった」

 のちに、佑介は中学生時代に東京ヴェルディのジュニアユースに所属し、中学卒業後に静岡県の清水商業高校(現・清水桜ケ丘高校)に進学、神奈川県の桐蔭横浜大学2年までサッカーを続けた。

 さわやかな好青年。サッカーに打ち込んだ者として青木のことをよく理解している弟想いの兄だ。今では仲の良い兄弟は、青木が帰郷すると、思い出の田中前公園で友人たちを交えてボールを蹴る。

 「子どもの頃の兄(亮太)はそんなにうまいとは思いませんでした」

 青木3きょうだいの末っ子で、長女の芽生はそう話す。芽生は小学1年のとき兄たちの所属する鶴川FCに加入した。「お兄ちゃんたちと一緒にサッカーがしたい」という芽生に則和は「リフティングが10回できるようになったら入ろうか?」と宿題を与えた。

 見事にクリアしてサッカーを始めた芽生はその後、なでしこジャパン(女子日本代表)の川澄奈穂美が所属した大和シルフィード(神奈川県大和市)で中学2年までプレーした。

 「兄(亮太)は鶴川FCではうまい方だと思ったけど、当時はプロになるとは思いませんでした。高校(流通経済大学柏高校)のときは、さすがにすごいなって思いました」

 同じサッカー選手として、兄亮太は「あこがれの存在」ではなかった。芽生にとって亮太の印象は「優しい兄」である。

 まだ、2人とも小さかったころのことだ。「悲しいことがあって私が自分の部屋にこもって一人で泣いていると、兄が入ってきて『大丈夫?』と心配してくれました」

 妹は、そのことを今もよく覚えている。




挑戦


 「この子は普通の子と違うかもしれない」―。

 則和が青木について、そう思うようになったのは鶴川FCのコーチになって1年ほどたったころだった。当時、青木は4年生。1年間で青木はぐんぐんと成長していった。ボールの扱い方やすばしっこさ(アジリティ)がほかの子どもとは明らかに違っていた。

 そこで、則和は一つの決断をする。

 「才能があるのならば、よりレベルの高いチームでやってほしいと考えました」

 思い浮かんだのは東京ヴェルディの下部組織だった。練習場は東京都稲城市のよみうりランド。自宅の最寄り駅の小田急線「鶴川駅」から電車で10分ほどにある。小学生でも一人で通える強豪クラブだ。

 則和は東京ヴェルディのジュニアの練習を見学したことがあった。環境は申し分ない。驚いたのは、子どもたちのレベルの高さだった。「こんなにうまい小学生がいるんだ」と舌を巻くような選手たちがそろっていた。

 「あそこでやらせたい」

 ただ、加入するためにはセレクションに合格することが必要だった。鶴川FCの関係者に相談すると「亮太ならチャンスがあるかもしれない」と薦めてくれた。

 「強いチームでレベルの高い選手たちに交じってやってみる気はないか」

 則和が聞くと青木はうなずいた。

 「やってみたい」

 実はちょうどこの時期、青木は当時Jリーグでプレーしていたブラジル代表のフッキのプレーにあこがれ、将来はプロのサッカー選手になりたいと思うようになっていた。

 小学4年の学年末、青木は東京ヴェルディジュニアの新5年生のセレクションに挑戦することになった。

 当時、よみうりランドで行われたセレクションは3日間にわたって行われ、4次審査まであった。

 憧れの緑のユニホームを目指して、2300人の子どもたちが集まった。ここから数人を選ぶという狭き門だった。複数のグループに分けて、ミニゲームを行い、クラブのコーチたちが手分けして各グループの参加者の技量をチェックしていく。

 その結果をコーチたちが持ち寄って協議し、徐々に絞り込んでいく。

 1次、2次、3次…。人数が次第に減っていく中で、青木は生き残っていった。最終審査の4次試験は東京ヴェルディジュニアチームとのミニゲームだった。この審査は、青木本人を含めて、さまざまな人に衝撃を与えることになる。

 「相手はめちゃくちゃうまかった。足が速いし、体も強かった。同年代で、こんなにうまい人たちがいるんだって衝撃でした」と青木は「未知との遭遇」にショックを受けた。

 一方、父の則和は別の意味で驚いた。「亮太はヴェルディの選手たちと比べて小さく、体格差があるのにうまいボールさばきで相手をかわしていました。スピードもそん色ない。『受かるかもしれない』と思いました」

 その感想は、選ぶ側も同様だった。

 「早生まれで小さな選手だが技術、センスは抜群。ボールタッチを見てハイレベルなことが分かった」

 そう語るのは、当時、東京ヴェルディジュニアの監督で青木のセレクションを担当した永田雅人である。

 兵庫県で生まれた永田は小学生の時に東京に引っ越し、中学、高校で読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の下部組織に所属した。日本体育大学に進学、その後3年間欧州に留学し、ドイツとイタリアで指導者の勉強を続けた。

 帰国後に東京ヴェルディの下部組織の指導者となり、現在はJ2ジェフ市原・千葉のアカデミーを指導している。若い世代を指導するエキスパートだ。

 4次試験で青木のプレーを見たとき、永田は「ブラジル人の子どもみたいだな」と衝撃を受けた。サッカー王国の遺伝子を受け継いだ小さな子どもが超絶テクニックを使ってストリートサッカーをしているような既視感を覚えたのだ。

 「まず、姿勢が良かったですね。ボールを持ったときに顔を上げて、ひざを柔らかく使いストレスのかからない走り方をしていました。ボールを持っていないときでも周囲をキョロキョロ見ていて、周囲の状況で細かくポジショニングを修正していました」

 さらに永田を驚かせたのは、青木がボールを持ったときだった。

 パスを出す直前、ギリギリまで周囲を観察していた。ひざと足首を使った柔らかいボールタッチ、懐の深いボールキープ。そしてキックしてからの一歩目…。永田は「めったにいない逸材だ」と見抜いた。

 最終試験が終了すると、コーチによって選手の名前が次々と呼ばれた。離れた場所から見守っていた則和は、それが何を意味するのか分からなかった。その中に青木の名前があった。

 「受かったよ!」

 青木家の次男坊は笑顔で父親に報告した。青木も則和も、まさか受かるとは思わなかった。

 それから2年、青木を指導した永田はある大会で再び衝撃を受ける。

(次号に続く)



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