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森下龍矢「皆さんの声援が僕を走らせてくれた」

261月

グランパスでの濃密な3年間に感謝の言葉を紡ぐ背番号17だが、我々こそ“単なるムードメーカー”という役割に収まりきらない八面六臂の活躍を見せた“デカ”に感謝すべきだろう。夢を追いかけて飛び込んだ中東欧、ポーランドの舞台で光輝く日が待ち遠しい。


インタビュー・文=INSIDE GRAMPUS編集部


昨年の12月22日、ポーランドの1部リーグ、レギア・ワルシャワへの期限付き移籍が正式に発表されました。その時の心境はいかがでしたか?

森下 夢だったヨーロッパ移籍が実現してうれしいはずなのですが、思っていたよりも寂しい気持ちのほうが大きかったです。役所に行って届け出をし、手続きを行っていたら、じわじわと寂しさがこみ上げてきました。


移籍を決断するにあたり、葛藤はありましたか?

森下 昨年の夏に同じようなオファーが来た際は最終的にグランパスに残る決断をしたのですが、その時は夢だったヨーロッパ移籍か、グランパスに残って優勝争いか、というところですごく悩みました。夢を追いかけるのも大事ですけど、ファミリーの皆さんに「優勝するためにプレーする」とずっと公言していたし、心からそう思っていたので、最終的には自分の夢を封印してチームに残ることを決めました。目標を途中で投げ出すのは自分らしくないとも思いましたしね。ただ、今回の冬の移籍に関しては、はっきりとした自分の価値観をもとに考えることができたので、前回ほど悩むことはなかったです。移籍はシーズンが終わってから、と昨夏の段階で決めていました。


レギア・ワルシャワはどのようなクラブなのですか?

森下 ポーランド随一の強豪で、国内リーグの優勝回数も最多を誇る古豪クラブです。昨シーズンは2位で、今シーズンも上位につけていますし、サポーターもめちゃめちゃ熱いんですよ。熱いどころか、スタンドで火事騒ぎを起こすくらい、物理的にも熱いチームで(苦笑)。(サガン)鳥栖もグランパスもプレーしたいと心から思えるクラブでしたし、やはりワクワクするようなクラブでプレーしたかったので、自分らしい決断ができたんじゃないかなと思います。


では、ここからグランパスでの3年間を振り返っていただこうと思います。プロ1年目となる前所属の鳥栖では2020年のリーグ戦で33試合出場と主軸として活躍し、翌2021年にグランパスへ加入しました。ところが序盤戦は思うように試合に絡めず、グランパスでのデビュー戦は第10節の鳥栖戦になりましたね。

森下 いやいやもう、あの第10節の鳥栖戦は3年間の中で一番心に残っている試合なんです。開幕戦からずっと出られなくて、「新加入の森下って大丈夫なのか?」と思われ始めていたし、僕自身も「このチームに俺の居場所ってある?」と悩み始めていた頃でした。忘れもしません。試合途中、監督に呼ばれ、僕がビブスを脱いで着替えている最中に逆サイドのグランパスゴール裏から拍手が起こったんですよ。その瞬間、カッと熱くなって体中に力が入りました。「よし、俺にも居場所がある。グランパスの一員になれる」と強烈に思った瞬間でした。


グランパスデビューを果たしましたが、その後も途中出場が多く、出場時間は伸びませんでしたね。

森下 でも、不思議と苦しさはなかったです。出場した時はいいプレーができていると僕自身は納得していたので。その頃、選手寮に住んでいたんですが、寮の玄関口で、当時の強化部の黒部光昭さんに「俺は見てるからな」とボソッと言われたんですよ。出場しても周りからの反応がほとんどなかったなかで、「自分のプレーをしっかりと見てくれている人がいるんだ」と感じて、ほんとに何気ない一言だったんですけど、すごく救われて心の支えになりました。僕は星の話をよくするのですが、星って一等星ほど寿命が短いらしいんですよ。サッカーの場合でも長くプレーすることにこだわる選手と、時間は短くともインパクトを残したいと思う選手に大きく分かれると思うんです。僕は一瞬でもいいからバカでかいインパクトを残すほうが好みなので、そういった気持ちの持ち方も良かったんじゃないかなと思っています。1年目は特に。


出場時間が短かったからこそ、きらりと光るプレーを見せたいと。

森下 そうです。僕自身、順風満帆のサッカー人生を歩んできたわけじゃないので。常にレギュラーだったわけでもないですしね。だからピッチに立った時にどれだけ自分が楽しめるか、どれだけ見に来てくれた人を楽しませるかってところにいつも重きを置いていました。見ている人の想像を超えるようなプレーを見せたいじゃないですか。ですから、途中出場でもドリブル突破やクロスでインパクトのあるプレーを見せようと考えていました。


1年目のリーグ戦出場は22試合でした。途中出場に加え、サイドアタッカーのような、一つ前のポジションでの出場も多かったですが、難しさはありましたか?

森下 大学時代にサイドハーフでプレーした経験もありましたし、アタッキングは得意なほうだったので問題なかったです。先ほども言いましたが、僕はスーパーな選手じゃなかったので、いろいろなポジションで起用されてきました。それがプロになってすごく生きているなと感じました。


1年目はAFCチャンピオンズリーグ(ACL)にも出場しました。

森下 ACLはグランパスファミリーの一体感を感じましたね。国を代表して戦う側面もあるので、負けたくなかったですし。クラブがより一致団結して総合力で戦っている感覚がありましたね。韓国の大邱(FC)とのラウンド16は取って取られての展開の中で僕もクバ(シュヴィルツォク)の同点弾をアシストして4−2で勝ったんですが、チームとして100パーセント以上の力が発揮できた試合だったと思います。


結果的に準々決勝で韓国の浦項スティーラーズに0−3で敗れました。

森下 悔しい負け方でしたね。アウェイで自分たち本来の力を出せなかったし、僕自身、なにもできなかった感じがして、心身ともにたくましさに欠けているなと痛感させられました。


その一方、ルヴァンカップでは優勝しましたね。

森下 獲るべくして獲ったタイトルだったと思います。FC東京との準決勝第2戦は今でも見返したりするくらい劇的な決勝進出でしたし、タイトルを獲れる要素がいくつも詰まった試合が続きました。僕自身は準々決勝から決勝まで全試合に出場したのですが、途中出場が多く、ほとんど見せ場を作れなかったという反省ばかりで、優勝してうれしい気持ちはあるものの、たしかな爪痕を残せなかった悔しさのほうが残る、ほろ苦いタイトルだったような気がします。


総合的に1年目を振り返るといかがですか?

森下 楽しかったですよ、本当に。人間的にも成長できた1年だったかもしれません。なかなか試合に出られない状況をどうやって打開していくべきか、もがき続けた1年間だったように思います。


難しい状況をどのように解決していこうと考えたのですか?

森下 いろいろなアプローチを試しました。例えば、守備だったらマッシモ(フィッカデンティ)監督に指摘されていた体の向き方、ディフェンス時の戻る位置、オーバーラップをするタイミングとか、いくつかの課題を一つずつノートに書きこんで、練習の中で少しずつ改善していくような地道な作業もやりました。加入1年目だったので、過剰になじもうとしていたところもあったので、気付いた点を整理したことで、いろいろと変わるきっかけにもなりましたね。


「なじもう」というのはチームスタイルに合わせるということですか?

森下 そうです。僕はどちらかと言えば、攻撃的なDFで、当時のグランパスにはあまりいないタイプだったので、少しでも守備型のサイドバックになろうとしていた自分がいたんですよ。ただ、ふとした時に思ったのですが、「俺みたいな攻撃的なサイドバックってグランパスにはいないよな、それって武器だよな」と気付いた瞬間があったんです。だから、「同じポジションの吉田豊さん(清水エスパルス)に近づこう」ではなく、「豊さんにない部分を伸ばしていけばいい」という考え方に変えたんですね。そういう発想の転換を自分なりに行いました。






そして2年目、長谷川健太監督が就任しました。どのような意識を持って臨もうと考えましたか?

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