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【クラブ30周年レジェンドウィーク特別インタビュー連載1/4】森山泰行さん

45月

5月14日(土)セレッソ大阪戦の試合前に行われるレジェンドマッチを前に、レジェンドマッチに出場するレジェンドOBにインタビューを実施。第1回目は1992年に加入し計8年半をグランパスで過ごした森山泰行さんに、Jリーグ発足時のチームの様子やスーパーサブとして活躍していた時期の思いなど、在籍時の貴重なエピソードを語ってもらった。


インタビュー・文=INSIDE GRAMPUS編集部、写真=J.LEAGUE


1993年のJリーグ元年。森山さんはその前年に大学を卒業され、名古屋グランパスエイトに加入されました。グランパスを選んだ理由を改めて教えてください。

森山 もともと岐阜県岐阜市の出身ですからね。高校(※帝京高校)、大学(※順天堂大学)と関東にいましたが、Jリーグが創設されるということでやはり地元の近くでプレーしたいという思いがありました。当時のサッカー界には日産、読売クラブ、三菱、松下電器といった名だたる大企業のクラブがあって、いろいろと迷いもしました。ただ、名古屋グランパスエイトもまたトヨタ自動車という大きな企業が支えてくれるクラブでしたから、地元に戻って頑張ろうという気持ちで加入しました。


引く手あまたで、かなりのクラブからオファーがあったそうですね。

森山 そうですね。私の場合、大学時代に日本代表に入っていたので、ほとんどのJリーグクラブ、それから将来的にJリーグを目指すクラブからも、たくさんお誘いをいただいたように記憶しています。


加入当時の練習環境はいかがでしたか?

森山 当時はトヨタ自動車研修センターの日進グラウンドで練習することが多かったですね。芝生のグラウンドで練習することができましたし、学生時代と比べて格段に良かったので、練習環境として不自由さを感じたことはありませんでした。ただ、現在のトヨタスポーツセンターと比較すると雲泥の差ですよ(笑)。


日本に初めてプロサッカーリーグが誕生しましたが、プロサッカー選手という自覚はありましたか?

森山 プロフェッショナルな世界に対して自分なりの考えを持っていたつもりでしたが、今考えると、お客さんがどんな思いをしてチケットを買って、スタジアムに足を運んでいるのかまでは考えが及んでいませんでした。草創期のグランパスが勝てなかったのは、個としてのプロ意識と、チームとしてのプロ意識が未熟で、しっかりと噛み合っていなかった部分が大きく影響していたのかもしれません。


1993年5月16日、名古屋グランパスエイトの記念すべきJリーグ開幕戦は鹿島アントラーズ戦でした。森山さんは81分に途中出場されています。

森山 いやあ、悔しかったですね。先発できると思っていたんですが、リネカーと沢入(重雄)さんの2トップがスタメンで。平木(隆三)監督の立場を考えると、初代キャプテンの沢入さんは外せなかったのかなと思いますが、僕も自信満々でしたからベンチスタートは本当に悔しかった。結果的に0−5と大敗したんですが、うちが先制していたら、あんな展開にはならなかったと思います。前半途中からジーコとアルシンドのパワーがスタジアムに乗り移って、私たちは完全に呑み込まれてしまいましたからね。


10チームでスタートしたJリーグ1年目は、1stステージが9位、2ndステージが8位と苦戦を強いられました。

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